会津の気候風土と歴史を刻んだ 会津木綿
会津地方において、日頃欠かせない生活布として人々に親しまれてきた会津木綿は、地味で素朴ながらも美しい地縞が特徴です。 厚地で丈夫、さらに肌合いが良く、保温性、吸汗性があるため、主に日常着や野良着に使用され、寒さが厳しく、夏は盆地で暑くなる会津の気候風土の中、会津人にとってかかせないものになりました。丈夫で使い心地のよい会津木綿は、頑固ながらも人情に厚い会津の人柄を表すようでもあります。 |
400年の伝統 |
天正年間に時の会津藩主蒲生氏が、産業振興のために綿花栽培を奨励したのが始まりといわれます。後の藩主加藤氏が、前の領国伊予松山から織師を招き、技術を広めた「伊予縞」と呼ばれる織物技術が、現在の会津木綿の多彩な縞模様の素地となっています。その後藩主となった保科正之(ほしな・まさゆき)が奨励したことで、会津での綿花の栽培と織物が定着しました。「機織」は農民だけでなく藩士の妻女の内職としても行われ、会津藩の特産品である漆器、陶磁器などと同様に、藩の保護政策のもとで次第に発達していきました。 |
会津木綿の魅力その1 純朴で技巧のない縞柄 |
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綿花栽培が盛んな地域では、育てた綿で糸をつむぎ、その土地の草木で生糸を染め上げ、それぞれの色あわせに工夫をして、多彩な種類の縞柄を生み出していきました。 やがてそれは、「地縞」と呼ばれるようになり、「縞柄を見れば、どの土地の人かわかる」といわれるほどになりました。 会津木綿の「地縞」は「藍」です。会津地方は藍の栽培に適した気候であり、古くから藍の生産が盛んだったからです。 会津の人は、濃淡に染め上げた様々な藍色の糸をつくり、濃い藍と淡い藍を組み合わせて木綿を織り上げ、多彩な種類の縞模様を作りました。 様々な色での染色が可能になった今でも、会津木綿といえばすっと筋が通った縞柄。 頑固で筋の通った会津人の人柄を思わせる純朴な美しさが魅力です。 ここを見よう! 縞模様にところどころ横糸の筋が見えます。これは、会津木綿の特徴で、手つむぎの糸は太さがところどころ変わりました。それが立体感を生み出し、風合いをかもしだしました。機械つむぎになった今でも、この独特の風合いを出すため、会津木綿の横糸には節のある糸が使われ、会津木綿伝統の美を表現しています。 |
会津木綿の魅力その2 実用的で丈夫な布地 |
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昔から会津では、木綿をモンペやサルッパカマなど野良着として愛用してきました。 厚手で丈夫な木綿は、吸水性と保温性が高く、また通気性に優れていて、冬の寒さが厳しく、夏は蒸し暑いという寒暖の差が激しい会津の気候にあった布だったのです。 実用性が高く、丈夫な会津木綿は、始めはごわごわした印象ですが、着込むほどやわらかく肌触りがよくなり、洗うほど味が出て着る人になじむ布となります。 丈夫で使うほどに味がでる会津木綿は今では、着る物の他、インテリア用品、小物類など幅広く利用され、気軽に会津木綿の風合いが楽しめるようになっています。 |
会津木綿の魅力その3 伝統を守る織元 |
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明治中頃、紡糸紡績業が発達し力織機も普及すると、明治末期から大正にかけて会津木綿の生産は最盛期を迎えます。 しかし、昭和30年代半ば以降、人々の生活スタイルが変わるとともに農家の仕事着としての需要が急速に減少。 かつて30軒以上もあった機業場は現在、「山田木綿織元」「はらっぱ 原山織物工場」の2社のみが、伝統を守り続けています。 |
企業紹介
『株式会社はらっぱ 原山織物工場』 株式会社はらっぱは、社長の急逝により封鎖に追い込まれた「原山織物工場」(明治32年創業)の事業を急遽引き継ぐ形で2015年に始まりました。 |
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『山田木綿織元』 最上純木綿糸を使用し、各地展示会で、最優秀賞を何度も獲得している明治創業の老舗。 昔ながらの藍の縦縞の他、様々な色合いの織物を生地だけでなく、巾着袋や文庫本カバー、ペンケースなど、使う人に合わせた小物制作も行っています。 「東日本大震災では、会津も直接的、間接的に大きなダメージを受けていますが、より多くの人に木綿製品の良さをわかってもらえるよう、商品の開発に知恵を出していきたいと思います。 使い込むほどに味わいが出てくるのが、会津木綿の良さです。 まず、木綿の手触りを楽しんでください。その後に人間と木綿との古くからの関わりをイメージしてみてください。」 |
山田木綿 三代目 山田悦史氏 |